昭和四十五年六月一日 朝の御理解


御理解第二十五節 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」


 大きな信心。教とかキリスト教という世界で一番たくさんな信者を擁しております宗教ですねぇ。大きな信心というたら、大きな宗教というような意味ではない。同時に又、大きな願いを立てるという事でもないと思う。大きな信心にはいき詰まりがない、小さな信心は行き詰まる、というような事を頂いた事がありますが、行き詰まりのない信心、限りなく続けていかなければおられない信心、私はそういう信心を大きな信心だと思うのです。限りなく続けていけれる信心、そういう内容を持った信心、何々宗何々教だから大きいとか、金光教の信心がそんなら大きいとかいう事もないと思う。金光教の信心させて頂いておっても、やはり行き詰まるような信心では、大きな信心と云えないと思うのです。ですからどういう事になるかと云うと、自分という者が見極められる。私のような者、私のように到らぬ者、もう神様の目から御覧になったらもうものの数ではない、私という、もう自分という者が最小限に小さく見えれる私。自分という者が小さく見えるというか、自分という到らぬ者としての自覚、そういう自分が小さくなる時に、おかげはいよいよ大きく見えてくる。自分が大きくのさぼっておると、おかげはそれだけ小さくしか見えなくなってくる。自分のような到らぬ者自分のように到らぬ信心、いわゆる信心も出来ませんのにという事である。信心も出来ませんのに、このようなおかげを頂いてと、このようなおかげというのが、例えば世界中の氏子におかげはやってあるとおっしゃる、おかげそのものは一応に下さってある、そのおかげが自分という者が大きいとおかげがそれだけ小さく見える。自分が小さくなればなるほど、おかげはだから大きく見えてくる。
 「日に月に」と、今朝、そういう風に頂きます。という事はどういう事だろうと思うたんですけれども、天地書附を拝唱さしてもらうとやはり「今月今日で一心にたのめい」とおっしゃる、今月今日という事になるように思う。日に月にという事は、今月今日。同時に日に月におかげが大きくなっていくと、日に月におかげを頂いていく、やはり今月今日で一心に頼んでそれが日に月におかげが大きくなっていく。いわゆる限りなくおかげを受けていく。これは行き詰まりはない。いわゆる小さいところから大きな信心へ向かって、一歩一歩大きくならして頂く、いわゆるお育てを頂く育っていくという事。大きな信心といわれるから、初めから大きな事を願いとしておるといったような、中身のない空虚なものではいけない。もう日に月に中身が出来ていく信心、日に月におかげが大きくなっていく信心、そういう信心にいわゆる行き詰まりはない。限りなく大きくなっていけれる。
 昨夜は、三十一日のいつも月の一番最後の日が御祈念に併せてひと月中のおかげの、受けてきたおかげのお礼をとりつかねて申し上げましてから、その後を信話会、十時に御祈念が終わりますから一時間ばかりではありますけれども、本当にひと月を振り返ってみて有り難いなぁとお礼を申し上げさせてもらう。もう夫婦、家族を上げてお参りになる方達が、夕べは二十五、六名でしたか、お広前に輪をかいていろいろ信心のおかげの話をさせて頂く訳です。もう本当にひと月の事を思わせて頂いて様々な事があった。ああいう事もあった、こういう事もあったけれども、もう全てがこのような広大なおかげを頂いて、こういう事になっておるという事が、お礼を申させて頂いておりますと、もう限りがない程、有り難いものが涌いてくるような感じが致します。それで私、夕べその事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日思うて日々嬉しゅう暮らせば家庭に不和はないというような御理解がありますが、いわゆる今日頂きます、日に月にであります。例えて小さく云うなら、日々がです、一日を締めくくらせて頂く時に、今日も広大無辺のおかげの中にお生かしのおかげを頂いて、今日一日の中にも様々な事がございましたが、その様々な事柄の全てが、神様のおかげの中にとり進められて参りましておかげを頂きましたと、真から心の整頓のあれこれも出来て、一日をお礼で終わらせて頂くというような日々、又はそれを少し大きく云うと月々。ひと月の事を思わせて頂きますと、本当に広大無辺のおかげの中にあれこれとおかげを頂いて参りまして、この月もおかげでと締めくくらせて頂く、という事がです、私は本当に心から出来る時です、もう大晦日の心であり同時にね、もう元日の心はそういうお礼心には、もう約束されたも同然だというように皆さんに聞いてもらった。
 日が暮れたから大晦日の気持ちにならにゃならん、夜が明けたから元日の気持ちにならにゃならんというて思わにゃならんというのではない。ひと月を締めくくらせて頂いて、本当に、今月も広大なおかげを頂きまして有り難うございますと。心の底からのお礼が出来るならば、そのあくる月の一日、例えば昨夜から云うと、今日はもう元日の心になろうと思わんでも、もう元日の心は与えられておらなければならない。もし与えられていないとするならば、夕べのお礼は、まぁだまぁだ不行き届きなものであった、足りなかったという事を知らなければならないというように聞いて頂いた。それ頂きながら確かにそうだなと私は思うた。 それは日々の事云うてもいい。本当に今日もお礼を申し上げても申し上げてもお礼が足りないという程しの、何と云うてもお礼が中心。それで一日の事を振り返ってみて、あれもお粗末であったこれも御無礼であったろうと、それこそ大晦日の時にあそこにも払わにゃならん、ここにも、というような区切りがないような、いわゆる年末を心がけるように日々です、私共が心の中にそうした整理整頓が出来て、詫びるところは詫びる、願うところは願う、けれどもやはり中心になるものは、今日一日のおかげを受けておるという御礼の心というものがです、深く出来れば広く出来れば、あくる日の元日の心はもう頂いたも同然だという事です。確かにそうですね。
 御祈念を終わってそういう話を聞いてもろうて、皆さんのお届けをさせて頂きました中に、久留米の佐田さんがお届けをしておられます。御祈念中に内殿のみすの向こうに軸がかかっておる。その掛け軸の前にね、丁度お正月の時に、干し柿がお供えしてある。その前に大きなブリがお供えしてあるというのである。そういう御心眼を頂いたと。「それは佐田さん、今、私がああた達に聞いて頂いたお話の内容だろう」と日々が有り難い有り難いで締めくくれる時に、あくる日の元日の朝の心にも似たような心は、もう元日の心になろうと思わんでも頂けるのだ。月々が、例えばこの月も本当に広大なおかげを頂いて有り難いと、もう心の底からお礼が申し上げられる時、昨日五月三十一日だったのが、今日の六月一日はもう本当に元日の心で清々しい目覚ましのおかげを頂く事であろう。いわゆる元日の心、そういう目出度いとか有り難いとかいう心を、いやだと云う者は一人もありません。そういう心になれたら、なりたいのが私達なのである。日々が目出度い、有り難いという心になりたい。そんなら元日の心になった時に、朝になったからあただに頂こうというのは、それはまぁいうならば、自分で演出した元日であってね、本当のものじゃない。やはりその前の晩の大晦日という晩がなからなけりゃならん。しかも大晦日には、あれも片付いたこれも片付いた、詫びるところは詫びた、願うところは願うた。一年中のお礼はお礼として申し上げられたというような、私は真からのお礼が出来る時、その喜びの中にやすませて頂くなら、あくる朝の目覚ましは、もうそこに元日の朝も同じような有り難い目覚ましのおかげになってくる、というのである。佐田さんが頂かれたというお知らせは、そういう事であろう。
 今日、私が頂きましたこの御理解二十五節の中から「日に月に」という事を頂いたが、大きな信心というのは、大きな事ばかりを願っておるというのではなくて、勿論大きな信心というのなら誰にでも合点のいく信心。話せば誰でも分かってもらえる信心、世界中に例えば教えが敷いていける程しの信心、そういう信心が私は大きな信心だと思います。だから、金光教の信心だからというて必ずしも大きいという事はない。けれども、私が最近云うております、和賀心時代に突入したんだと、和賀心学を修めて和賀心を、いわば自分だけではなくて世界中の総地球上に住む人類の全てに、これを分かってもらいたいという、そういう可能性を持った信心、これならやっぱり大きいですね。毎日頂きますように、和賀心によっておかげが頂ける、人間が幸福になれれる、その和賀心になる為には和賀心学を身に付けていくという、そういう信心の進め方、これはもう絶対に大きいですねぇ。いわゆる云うなら、和賀心を看板にしての信心。これならば世界中のどこの誰にでも通用する信心、迷い信心じゃない、又は難しい理屈ばった事でもない。本当に天地の道理を元にして和賀心が説かれるならば、天地の御恩徳を説きながら和賀心を説くならば、誰にでも分かっていく、世界中に浸透していく事の出来れる可能性を持った宗教、それを大きな信心という事になるだろうがです、それを今日、私は小さく小さく自分という者が見極められ、私のような者、私のように到らない者という、それこそ浜のまさごにも似たような私、神様の目から御覧になれば、いよいよあるや無いやら分からん程しの私。その私を見極めるところにです、おかげはそれだけ大きく見えてくると云うのである。その大きく見えてくるおかげが日々です、広大無辺のおかげとして心の底からお礼が申し上げられる時にです、もうそこには大晦日の心が頂けたのであり、そこには願わずとも元日の心は約束されたも同然だという事を、今日は皆さんに聞いて頂いた。そして昨夜の三十一日のひと月のお礼の事、夕べの信話会の事の中からです、今日私が頂く「日に月に」という事が、今月今日という事にもなろうが。日に月にという事は、日々が月々がおかげの進展、おかげが日に日に進展して参りまして、そのこそのおかげをお礼申し上げさせてもらう御礼の心というのが有り難い元日の心を、又その翌日には元日の心になろうとは思わんでも、例えば一日の御礼が心の底からなされる時に、元日の心はもう頂いたも同然だという風に聞いて頂いた訳ですね。そしてそういう事の中から、佐田さんが御祈念中に頂かれた御心眼に、干し柿のお供えしてある前に、大きなブリをが一本お供えしてあるというのである。だから、いわゆる小さな信心では迷いやすい、大きな信心にならなければ、行き詰まりのない信心こそ大きな信心だと。行き詰まりのない大きな信心は、もう日に日に月々です、日に月におかげを頂いて、しかも限りなくとどまる事を知らないおかげの進展していく程しの信心をです、身に付ける事だと。それは自分自身が分かる事だ。小さい小さい自分である自分が分かってそこからおかげが進展していく。そこでね、その佐田さんが頂いておられる干し柿なんです。柿のお知らせは人間誰しもが持っておるめぐりだと頂いております。いうなら難儀の元なんです。それがね、一生、只めぐりを持ったまま終わっていくとどういう事になりますかねぇ。段々、軟くなって熟しになってそのままほっておくと、もう腐ったようになっていきますよねぇ。これが私は信心の無い人の姿、いや信心はあっても、そのめぐりの自覚も持たずに只おかげおかげと、おかげを追う信心であっては、熟し柿も同じ事です。けれども私共が今申しますように、私のような者、私のような到らぬ私である、いうなら屑の子の自覚、めぐりの自覚、私のような者、その私のようないうなら浅ましい汚い、神様の目から御覧になれば、もういよいよ屑の子にしか見えないであろう私がです、屑の子の自覚が出来てそこから一分ずつでも一厘ずつでも日に月に清まってもいこう、改まってもいこうといういき方、それは丁度この柿がね、皮をむいていくようなものだ。干し柿にする時に皮をむくでしょう。いわゆる自分が一日一日脱皮を続けていくという事である。日に月に私自身が脱皮を続けていくという事。なる程、修行である。苦しい。自分の、例えば渋柿が渋がぬけていくまでつり下げられておる。渋がぬけていく、自分の人間としての、いわば素晴らしさを頂かせて頂く為にね、神の氏子としてのおかげを頂く為に、私共の心に付いておる我情我欲がぬけていく、清まっていく。我情我欲が様々な事に直面した。都度都度に自分の我情が、自分の我欲がぬけきっていく。そしてそれが干し上がったように干しあがっていく。それが私は、本当の信心を身に付けていく者の姿だと思う。だから熟しになって終わっていくのと、干し柿のようになっていく人生と大変な違い。そこに信心のある者と無い者は、親のある子と無い子程の違いという事になってくる。自分という者の正体が少し見えてきだしてですねぇ。自分の悪が少しずつでもぬけてくるとですねぇ、これは有り難い事なんです。
 夕べも信話会の終わった後でした。ここの部落の方達が四、五人まだ残っておられました。そして今、毎日お参りになってある永松さんのお話が出たのですよ。最近、永松さんがここにお参りになるようになって、非常にきれいになられたと云うのです。私もここ二、三日永松さんのお取次させて頂く時に気付いておる事なんです。人相が、いわばよくなられた。しかもきれいになられた。まあ十日と少しばかりではありますけれども。これはもう私がいつも思うんですけれどもねぇ。お参りを初めて信心の喜びが出来ますと、もうガラッと人相が変わるです。これは間違いないです。だからああいう勢いでです、信心が進んでいったら素晴らしい事になるだしょうけれどもね・・・・・確かに信心とは、人相が変わっていくと思う。だからやはり運命が変わっていくのも事実なんです。これはもう本当です。もう、ひと月ばかりお参りするなら人相が変わるです。変わるのが当たり前、心の状態が変わっていくものね。のんびりとなってくる、美しゅうなってくる、何とはなしに。それはです、例えていうならば私共が、いわゆる一生が修行じゃとおっしゃる修行という事が、自分という者を脱皮に脱皮を重ねていくところの生活が出来るのですから、おかげを受けるんです。そういう例えば、日に月にの信心が出来ていく時にです、大晦日の心も頂け、毎日がそのような目出度い日々、有り難い日々が送られる。そういう生き方にです、佐田さんが頂いておられるように、ぶりぶりとしたようなおかげが伴わないはずはない、というのである。それこそぶりぶりとしたおかげ。それにはね、お互いがそういう干し柿的日に月にであるかという事なんです。昨夜もその事を聞いて頂いたんですけれども、二十何年前、福岡で私が修行中の時分はお月次祭といや、もう水ずくしであった。お供えが・・・「水ずくし魚ずくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ」といったような御教えを頂いておった時代の話をさせて頂いて、そして昨日の事をお話するんです。
 昨日は、久留米地区の典楽会の方達が二十幾人ここで集まられまして、ここ総会がございました。十時半からちょうど五時頃まででした。長い時間。御馳走向きだけでも、もう本当に十幾種類出ました。もう本当に私は思いました。それがみんな冷蔵庫から出したもんばっかりだった。鯛も大きいのがたくさん入っとるし、ぶりも何本も冷蔵庫の中に入っているし、だからそれを出して、昨日は二十何人かの方達にいろいろ御馳走させて頂いたという訳です。本当に魚ずくし。これが二十年前までは、それこそ水ずくしじゃった私共が、今日このような魚ずくしのおかげを頂いて、もう頂いても頂いても頂き尽くせぬ程しのおかげを受けておるという事は、私はぶりぶりしたおかげではなかろうかと云うのです。そういうおかげを頂く、例えばそのという事がです、只、ローマ一日にして成らずであって、「とても大坪さんふがよかったですね、あゝた、こげん儲け出して」といった意味の事をいわれる人があるけれども、私が本当にふがよかったからだろうか、そうじゃあない、なるべくしてなっているんだと。
 私共が二十年前の話を聞いて下さい。なる程、おかげ頂かんならん元がそん時出来ている。おかげを落とさなければならない元を、難儀をせねばならない元をお互いが作りよる。やはりおかげを頂かせて頂く元がちゃんと出来ている。しかも干し柿的にです、いつまで置いても悪くならない。あの世にも持って行けこの世にも残しておけれる、という徳になっておる。そういうおかげを頂いてきた話を、昨日も聞いて頂いてです、今朝の御理解を頂きましてね、特にこの二十五節の中から、日に月にという事を頂きましてそういう日に月に進展していく信心こそ、私は大きな信心だと思います。もうこれでいいと極める所が無い、限りがない、そういう限りの無いおかげにつながっていけれる信心、そういう信心を私は大きな信心と思う。このままおかげを頂いていけば、先々どのような御用にでも立つ事が出来るぞと、希望の湧くような信心。それを大きな信心とは、「大きなおかげ下さい、大きなおかげ下さい、大きなおかげ頂いたら大きな御用でもさせて頂きます」といったような信心ではないと。もう日に月に私共の信心の歩みというものの一歩一歩がです、我情我欲の脱皮の生活が続けられるような信心をいうのであるという事。なる程、この信心になら行き詰まりはなかろう、行き詰まりのない信心を大きな信心だと。こがしこ一生懸命参って、大きなおかげを頂かせて下さいというて願いよる、大きな御用もしますと云いよるけれどもおかげ頂かん。これはもう神様も仏様もあるやらないやら分からんごとなった、というような行き詰まり、そういう壁にぶつからないで済む信心。それにはもう日々が刻々がまぁいうならばです、今月今日只今をです、本当にさせて頂く信心、そこから自分自身のぎりぎりの正体を把握させて頂いて、その中から脱皮が続けられていくというおかげ。
 佐田さんが頂かれた、いわゆる干し柿のお供えが出来てぶりぶりといたぶりのお供えが出来て、おかげを頂かせて頂くという事がです、有り難いだけではない、それがいうならば神様の願いでもある。私共にそのようなおかげを受けてくれよというのが神様の願いなのですから、そういう神の願いに応えていけれる信心、そういう信心を私は大きな信心だと聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。